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Friday, March 10, 2006

特種

 どこかの公園のベンチである。 眼の前には一条の噴水が、夕暮の青空高く高くあがっては落ち、あがっては落ちしている。 その噴水の音を聞きながら、私は二三枚の夕刊を拡げ散らしている。そうして、どの新聞を見ても、私が探している記事が見当らないことがわかると、私はニッタリと冷笑しながら、ゴシャゴシャに重ねて押し丸めた。 私が探している記事というのは今から一箇月ばかり前、郊外の或る空家の中で、私に絞め殺された可哀相な下町娘の死体に関する報道であった。 私は、その娘と深い恋仲になっていたものであるが、或る夕方のこと、その娘が私に会いに来た時の桃割れと振袖姿が、あんまり美し過ぎたので、私は息苦しさに堪えられなくなって、彼女を郊外の××踏切り附近の離れ家に連れ込んだ。そうして驚き怪しんでいる娘を、イキナリ一思いに絞め殺して、やっと重荷を卸(おろ)したような気持ちになったものである。万一こうでもしなかったら、俺はキチガイになったかも知れないぞ……と思いながら……。 それから私は、その娘の扱帯(しごき)を解いて、部屋の鴨居(かもい)に引っかけて、縊死を遂げたように装わせておいた。そうして何喰わぬ顔をして下宿に帰ったものであるが、それ以来私は、毎日毎日、朝と晩と二度ずつ、おきまりのようにこの公園に来て、このベンチに腰をかけて、入口で買って来た二三枚の朝刊や夕刊に眼を通すのが、一つの習慣になってしまった。「振袖娘の縊死」 といったような標題を予期しながら……。そうして、そんな記事がどこにも発見されない事をたしかめると、その空家の上空に当る青い青い大気の色を見上げながら、ニヤリと一つ冷笑をするのが、やはり一つの習慣のようになってしまったのであった。 今もそうであった。私は二三枚の新聞紙をゴシャゴシャに丸めて、ベンチの下へ投げ込むと、バットを一本口に啣(くわ)えながら、その方向の曇った空を振り返った。そうして例の通りの冷笑を含みながらマッチを擦(す)ろうとしたが、その時にフト足下に落ちている一枚の新聞紙が眼に付くと、私はハッとして息を詰めた。 それはやはり同じ日付けの夕刊の社会面であったが、誰かこのベンチに腰をかけた人が棄てて行ったものらしい。そのまん中の処に掲(だ)してある特種らしい三段抜きの大きな記事が、私の眼に電気のように飛び付いて来た。
空家の怪死体[#本文より2段階大きな活字]     ××踏切附近の廃屋の中で     死後約一個月を経た半骸骨  会社員らしい若い背広男[#本文より1段階大きな活字] 私はこの新聞記事を掴むと、夢中で公園を飛び出した。そうしてどこをどうして来たものか、××踏切り附近の思い出深い廃家の前に来て、茫然と突っ立っていた。 私はやがて、片手に掴んだままの新聞紙に気が付くと、慌てて前後を見まわした。そうして誰も通っていないのを見澄ますと、思い切って表の扉(と)を開いて中に這入(はい)った。 空家の中は殆んど真暗であった。その中を探り探り娘の死体を吊るしておいた奥の八畳の間(ま)へ来て、マッチを擦って見ると……。「……………」 ……それは紛(まご)う方ない私の死体であった。 バンドを梁(はり)に引っかけて、バットを啣えて、右手にマッチを、左手に新聞紙を掴んで……。 私は驚きの余り気が遠くなって来た。マッチの燃えさしを取り落しながら……これは警察当局のトリックじゃないか……といったような疑いをチラリと頭の片隅に浮かめかけたようであったが、その瞬間に、思いもかけない私の背後(うしろ)のクラ暗(やみ)の中から、若い女の笑い声が聞えて来た。 それは私が絞め殺した彼女の声に相違なかった。「オホホホホホホ……あたしの思いが、おわかりになって……」

Friday, March 03, 2006

柩馬車

 ソフィヤ村のナーシェンカは市(まち)に出た。 ナースチャは電車にのっている。電車は二台連結だ。ナースチャはひろげた脚の間に麻袋をおき、あとの車にのっている。アンナ・リヴォーヴナはナースチャの隣にかけ、かばんをそばにおき、その上に肱をついて眼をつぶっている。電車は午前九時すぎのモスクワを行くのだ。ナースチャは朝日のあたる窓に向って、顔をしかめながら外をみた。大きいまるで見知らぬ都会の景色のなかでナースチャになじみのあるのは向日葵(ひまわり)の種売りだけであった。朝のところどころの露店で、五カペイキのコップは向日葵を盛って厚ぼったく光った。 電車の窓の下をトラックが通る。トラックには三人労働者がのっていて、あっち向きに電車を追いぬきながら、窓にあるナースチャの顔を見つけ、互になにか云って笑った。「おーい、こっちへ乗ってきな!」 怒鳴りつつ去った。紫と白の太い縞シャツを着た、若い男の笑顔を、ナースチャはいい男だったと思った。 樹の枝でつくった平べったい檻に鶏を沢山入れ、山のように積んだ荷馬車が行った。下積みの檻は、上からの重みでひずんで、一羽雄鶏が苦しそうに檻のすき間から首を外へ突出していた。 アンナ・リヴォーヴナの家では、どんな正餐(アヴェード)を食べるのであろうか? 道普請だ。電車はのろのろ進む。……ナースチャはなんだかちょっとぼんやりした。 やがて教会の金の円屋根が光って見える広い通りへ出た。からりとして明るい往来の上に、一台柩馬車がいた。柩馬車は黒い。棺も黒い。花もなくひいて行く。後からプラトークをかぶった女が二人、年とった女を左右からかかえて歩いていた。柩馬車の御者台には、御者とならんで十一二の男の児が冬外套を着てのっかって行く。 窓からのり出してナースチャはその葬式を見送った。その時ひろい街の上にあるのは朝日とその葬式ばかりで、いつまでもいつまでも馬車にのっかって行く男の児の外套を着た背中が黒くぽっつりとかなたに見えるのであった。……ナースチャは窓をはなれ、坐りなおし、帳簿つけをしている女車掌の胸につり下っている、テープのように巻いた切符を眺めた。切符は赤、黄、水色、白――電車はながい。

新聞の上へ出して行った木炭

 細い肱を蟹のように張って、ナースチャは火のしをかけた。二人寝台用の大敷布はたたむにも、伸すにもナースチャ一人の手にあまった。アンナ・リヴォーヴナが新聞の上へ出して行った木炭は少しだから、火の気の強いうちに、急いでかけてしまわねばならぬ。力がいるのと木炭のガスとでナースチャの顔はほてり、頭痛がした。しかしナースチャは、肱を蟹のように曲げ一生懸命火のしをかける。 ジジーン! 呼鈴がクワルチーラじゅうに響いた。火のしを平ったい金びしゃくにのせ、ナースチャは入口へ行った。「どなた?」 いきなり開けるなと、ナースチャはきびしく云いつけられているのであった。「開けて下さい。部屋を見に来たんですから」 それは全然聞きおぼえのない男の声であった。ナースチャは、戸に手をかけたなり怒った声で、「誰です、そこにいるの?」と云った。部屋を見る人間がいるなんて、ナースチャは聞かされていなかった。「心配なさるな、アンナ・リヴォーヴナのクワルチーラでしょう?」「ええ」「部屋を拝見に来たんです。開けてくれればいいんです」 午後二時半で、家はナースチャひとりであった。そればかりか建物全体が一日じゅうで一番しんとして人気のない時刻だ。ナースチャはだんだん気味悪くなり、戸の外の気配をきき澄した。 外の男は足をふみかえたり、もそもそしていたが、こんどは拳でトントン戸をたたいた。ナースチャは、内から前垂の端をつかんで叫んだ。「行って下さい。知らない人に戸を開けることなんて出来ないんだから。アンナ・リヴォーヴナはお留守ですよ」「強情ぱり」 そう云う声がし、つづいてコンクリートの階段を降りる足音がした。――悪魔奴(チヨルト)、どいつを連れていったんだ!――ナースチャは台所へ戻り、火のしに木炭を足し、サモワール用の小煙筒をしかけた。ナースチャは、満足を感じながら、ふつふつと小さいおきの落ちたのを一枚の仕上った敷布の上から吹きはらった。アンナ・リヴォーヴナは、ナースチャが洗濯上手だと云って、ひどくほめた。ナースチャもほめられれば嬉しかった。ナースチャが来たては中国人の洗濯屋に出していたこの大敷布までいつか彼女が洗うようなことになった。洗濯屋に負けず綺麗だと云われるために、若いナースチャは過分に労力を費すのであった。 十五分もたったころ、アンナ・リヴォーヴナの声が入口でした。「さあさあ、どうぞこちらへ」 ナースチャは台所の戸からのぞいた。アンナ・リヴォーヴナのうしろから、バンドつきの外套を着て書類入(ポルトフェリ)を抱えた山羊髯の小男が、すべるような足どりで入って来た。男はナースチャを見つけると、ちょっと鳥打帽子のひさしに指をかけ、いやに丁寧に、「こんにちは」と云った。さっきの男だろうか。ナースチャがまごついていると、その山羊髯の男は唇だけで薄く笑いながら、「アンナ・リヴォーヴナ、あの娘さんがさっきわたしを入れませんでしたよ」と云った。「まあ、どうしたのさお前、御挨拶をおし。田舎のお嬢さんですが、それはよく働きますの」 アンナ・リヴォーヴナは愛嬌よくナースチャに近よって肩をたたいた。「お互に仲よし、ね。親子のようにやっています」 ナースチャは、つっ立ったまま二人が食堂に入るのを見送り、肩をしゃくり、台所へ戻った。男の水のように冷たくて、ねばっこい瞳がナースチャを不快にした。男は唇で笑ってアンナ・リヴォーヴナに話しながら、眼でじっと睨んだのであった。 男は本当に部屋を借りるらしかった。パーヴェル・パヴロヴィッチが書斎のようにしていた小室へ、先週大工が来て棚を作った。その室をアンナ・リヴォーヴナは男に見せた。壁をとおしてナースチャのところへ話が聞えた。「ちょっと失礼、この寝台はこっちの壁へつけた方が勝手なように思われますな」「それはどうぞ御勝手に、わたしどもあなたが居心地よくていらっしゃればなによりなんですから」 床の上をすべるような気ぜわしい靴の音。「ごめん下さい、こっちは台所ですか」「ええ、ですけれど」 アンナ・リヴォーヴナがいそいで答えた。「決しておじゃまはさせません。朝はどうせあなたと御一緒時分ですし、わたしども夜だって早いんですから」「それは結構(ラードノ)。……もう一分間どうぞおじゃまさせて下さい。あなたんところに大きな絨毯はありませんか」 男を送り出すとアンナ・リヴォーヴナは頭をふりふり食堂へ戻った。夜、リザ・セミョンノヴナのところへ茶を運んだ時、ナースチャは、「聞いて下さい。リザ・セミョンノヴナ」 例の、もう散らかりかけている小机の隅へ膝をついた。「今日、なんて男が室を借りに来たか! なにか云うたんびに一々ちょっと失礼だの、ごめんなさいだのくっつけるんですよ、そのくせ、机が二寸長すぎてもいけないんだって!」 肌の綺麗な顔を少し反らせ、湿っぽくて臭そうなナースチャの綿繻子の前垂を眺めながら、リザ・セミョンノヴナはきいた。「もうきまったの」 ナースチャは田舎女らしく目まぜをしてささやいた。「アンナ・リヴォーヴナはちっともその男を好いちゃいないんです。ちゃんとわかってる。――でもお金があるんですよ、半年分払うんですって」「ふうん」「あの山羊髯!」 リザ・セミョンノヴナは無頓着に云った。「いいさ、そんな男の細君になる女だってあるんだから」 出がけにナースチャが戸を開けると、廊下で鋸の音がした。「なにがはじまったの」「ごらんなさい、パーヴェル・パヴロヴィッチが机を二寸ちぢめているんですよ」 男は越して来た。台所に引っこんでいたナースチャが風呂場へ行って見たら、風呂場の壁へ特別彼用のニッケル製手拭掛と、歯磨ブラシ、コップなどのせるやはりニッケルの道具が取りつけられていた。男は自分用の茶碗を持って台所へ行こうとして小熊の剥製や帽子掛のある廊下でリザ・セミョンノヴナに出喰わした。猫背ですべるように歩いていた彼は、素早く歩を横に移して壁ぎわにより、ぴったり脚をそろえて立った。「こんにちは」「こんにちは」 行きすぎようとするリザ・セミョンノヴナを遮って、「一分間(ミヌートノ)おじゃまさせていただきます。あなたもここにお住いですか」「ええ」「それは結構(ラードノ)。どうぞあなたの美しいお手を――わたしはオルロフ、経済をやっています」 リザ・セミョンノヴナは手の甲を接吻させ、自分の名は云わず室に入って勢よく戸を閉めた。 オルロフはこれまでアンナ・リヴォーヴナの食堂にあった家で一番いいスタンドも借りて自分の部屋へ据えた。彼は二つの葡萄酒コップを持っていた。葡萄酒コップは茶がかった緑色で台にグリグリ飾のついた玻璃(はり)であった。朝ナースチャが、彼の茶碗に茶を入れて運んで行くと、「バルザック」とレッテルの貼ってある白葡萄酒の瓶の横にそのコップがあって、オルロフ自身は山羊髯をなで、布張の椅子にいる。彼は目を離さずナースチャの顔を見て云った。「ナースチャ、コップを洗ってくれるね」「よろしい(ハラショー)」「もしお前がこわしたら、くびり殺すからそのつもりでいなさい」「…………」「わかったか」「わかりました」 ナースチャは、ぷりぷりしてコップを盆にのせるのであったが、心のうちでは恐怖を感じた。それを洗って元に戻すまで、オルロフの水のように冷たいねばっこい眼付がつけて来るような気がした。 リザ・セミョンノヴナとオルロフはすべてに正反対であった。例えばリザ・セミョンノヴナは室掃除のことでいつか小言を云ったことがあるだろうか。南京虫がくった朝だけ、リザ・セミョンノヴナは、「ごらん、ナースチャ」 柔らかな肢(あし)でも手でも、赤くふくれたところをナースチャにつきつけて云うのであった。「恥しくないかい(ニエ・ストィドノ)」 アンナ・リヴォーヴナが寝室の戸棚へしまっておくミヤソニツカヤ通のおそろしい臭いの南京虫退治薬をまけと云うだけのことなのであった。 オルロフのいるうちに、なるたけ彼の部屋は掃除しなければならない。オルロフは室を去らず、ナースチャが机の上をいじっている時に、椅子の上から、椅子の下をはくときは衣裳棚の前に立って監視した。「どうぞ御親切に、ナースチャ、その暦はインキ壺の右の肩のところへおいて下さい」 または、「あれが見えないかね、可愛いナースチャ」 猫背のオルロフが水のような眼で見ているところは寝台の下で、鞄の端に一条の糸屑が引っかかっているのであった。

モスクワ

 十二月になった。日が短くなって、モスクワには毎日雪が降った。 頭からショールをかぶったナースチャは脚の間に石油罐をおき、歩道に立っていた。石油販売所はまだ売りはじめない。雪の積った燈柱の下にトラックが一台いた。そのトラックと石油販売所の入口にかけて歩道を横切り階子(はしご)のようなものがかけられていた。トラックの上の男が石油の大きな樽をその階子にのせた。歩道にいる男がそれをころがして店へ運びこむ。石油販売所の内部は暗くがらんとしている。陰気な石の壁の上にも石の床にも石油のしみと臭いがある。トラックからおろす石油の樽も油じみて黒い。その樽に雪がついていた。 雪は細かく、しきりに降る。 石油販売所の石段から、買いての列は町角のタバコ売店(キオスク)の前まで連った。女ばかりであった。ナースチャの後には石油焜炉(プリムス)を下げた婆さんが立っていた。ナースチャの前には、若い娘が繩でつるしたガラス壜を歩道において、壁にもたれ、一心に本を読んでいる。ショールからはみ出した娘の前髪に雪がちらちらついた。粉雪をとおして遠くに、アルバート街の赤と白で塗った大教会の塔が美しく眺められる。 ナースチャはバタも買わなければならなかった。彼女は四十分も待っているのだ。ナースチャは、うしろの婆さんに、「わたしちょっと買物をしてくるから、番おぼえてて下さいね」と頼んだ。「罐おいてくから、どうぞ見てて下さい、お婆さん」 石油焜炉(プリムス)を片手に下げながら婆さんは、往来から拾った吸いのこりのタバコをふかしていた。「よしよし、見ててやるよ」 バタとジャガいもを籠に入れ、籠は腕にひっかけ、外套のかくしから向日葵の種を出して食べ食べナースチャが戻って来ると、石油販売所の人だかりは一そうひどくなっていた。ただの通行人は、そこまで来ると、車道へおりて行った。ナースチャが自分の番の場所へ立とうとすると、さっきはいなかった太った紫のプラトークの女がそばにいて、「女市民(グラジュダンチカ)! どうぞ順にならんどくれ、わたしはお前さんより前に来ているんだよ」と叫んだ。「なぜさ。わたしはさっきからここにいたんですよ」 石油焜炉を下げてタバコをのんでいた婆さんもどこかへ行って見えなかった。ナースチャはもう一つうしろの女を証人にしようとした。「ね、お前さんだって知ってるねえ」 茶色の帽子をかぶった女は、外套の高い襟の間から鼻先だけ出し、つまらなそうに答えた。「知らない」「うしろへおいで。ごまかしたって駄目だよ、女市民さん(グラジュダンチカ)」「お前ここへ立っといで、いいから」 そう云ったのは、ナースチャの前で本を読んでいた娘であった。「この人は、はじめっからここにいたんです。わたしが知ってる。罐もある――ごらん」 ナースチャは再び罐を足にはさんで立った。娘も本を読みつづけた。 ナースチャは、向日葵の種を前歯で破って殻を唇の間からほき出しつつ、娘の本をのぞいた。読んでいるページの上に、どこか図書館の紫のゴム印がおしてあった。ナースチャはしばらく眺めていて、きいた。「面白い、その本」「うん」 ナースチャは、吐息をつくように云った。「わたしんとこにはなにもない」 指をページの間にはさんで本をとじ、娘はナースチャを見た。「なぜ?」「なぜだかそうなんです」 ナースチャは規則正しく、速く向日葵の種の殻をほき出しつづけた。娘は、石油販売所の入口の群集を見た。「どうしたんだろう、今日は」 往来を映画の広告車が五台つづいて通った。赤塗のゴム輪の上に、赤坊を抱いた女の顔の大写しと、火事場の焔のなかに働いている消防夫の写真が掲げてある。車を押す男たちは、降る雪にさからって首を下げ、ならんで電車路を横切った。 娘が、「あれは面白いよ」と云った。「みた? お前」「いいえ。……わたし映画(キノ)大好きだけれど高くって――それにわたしいつも独りで行かなけりゃならないんです。みな友達づれだのに、はじめっからおしまいまでわたし黙って坐ってるんです」「どこかに働いてるの」「ええ」「組合(ソユーズ)に入ってないの、お前」 ナースチャは、拇指のつけ根みたいなところで口のはたをふきながら娘を見た。ナースチャはきかれたことを理解しなかった。「組合(ソユーズ)……どんな」「ナルピット」「そこへ入ると映画がやすくなるんですか」「わたしいつだって十五カペイキか二十カペイキでみている」 やっと石油が売り出され、列は少しずつ前進しはじめた。娘は繩で壜をつるし上げながら云った。「わたしもう二年組合に入って、夜は勉強しているし、朝九時から夕方五時ぐらいまでの働きだし、満足してるわ」 壜へ石油をつめてもらうと、娘は、外套に雪をつけたまま、ナースチャの横を通りぬけて先へ出て行った。 村での話とはちがって、ナースチャがいつくと、直ぐ二人も借室人(クワルチラント)が入った。その一人が、直接の主人よりナースチャになんだかおっかぶさって(悪魔(チヨルト)にさらわれろ(ヴァジミー))泣きたい気持にさせるのも仕方がないとする。洗濯物のふえたことも、このごろは食物ごしらえをほとんど一人でしなければならなくなったこともまあいいとする。ナースチャを苦しめるのは、この森の樹より人間の多いモスクワで自分が、まるっきりの独りぼっちだという事実であった。 アンナ・リヴォーヴナは不親切ではなかった。しかしそれはアンナ・リヴォーヴナが、親切にしようと思っている間だけのことであった。もし自分が病気になって働けなくなったらどうなるか、ナースチャは感じていた。アンナ・リヴォーヴナは自分を彼女の借室(クワルチーラ)の台所の隅においてはおかないであろう。頭のなかにはるかに小さくソフィヤ村のひろい原っぱや、原っぱのかなたに動かぬ赤い貨車の景色などが浮んだ。白樺の生えたあの二階家で、伯母がよくも自分を養っていてくれたといまは思われた。働きがなくなったと云ってそこは帰れるところではない。ナースチャは仲間がほしかった。その仲間のほしい心持を話す友達さえないということが、このモスクワであり得るだろうか。 モスクワだから、それはあり得た。ナースチャがたまに夜映画から帰ると、アルバートの広場で通りすがりの若い男が耳のそばで、「行こうよ(パイディヨム)」とささやいた。ナースチャがその若ものの顔を見定めずに通りすぎるように、その男もナースチャの顔をはっきり見もせず、麦酒屋(ピブナーヤ)の窓から片明りのさす歩道でささやくのであった。